君のためなら千回でも

もう一度、やりなおす道がある



  

数ヶ月も前のことだけど、どこかでこの作品の予告編を見た。
そして、書店さんで原作を見かけ、ふむふむと思いながら、そのまま購入し読んだ。
アフガニスタンで生まれた少年。成長の過程で経験したこと、そして激動の時代背景に翻弄されながら米国で暮らす姿が克明に描かれている。

正直に言って、原作ほどではないなと思いながら観ていた。でも、最後の最後、主人公のアミールが、アフガニスタンから連れて帰ってきたソーラブのために丘の向こうに消えていった凧を追いかけるときに叫ぶ「君のためなら千回でも!」 この台詞を耳にした(字幕を読んだ)瞬間、堰を切ったようにこみ上げてきてしまった。

人間は愚かな生き物で、成長過程においても、成長してからでさえ、さまざまな過ちを犯しながら過ごしている。その愚かさに気付き後悔する人もいれば、気付きもせずにただ通り過ぎていく人もいる。この映画は、そんな当たり前のことなんだけど、人間としてどうすればいいのかを押し付けがましくなく教えてくれる。
考えてみれば、その過ちを取り戻せるチャンスに恵まれることはそう多くは無い。たとえ恵まれたとしても、それに気付けないことだって少なくはないのかもしれない。

カリフォルニアに住む若手の作家アミール。パキスタンから一本の電話が掛かって来た。受け取った電話の主は、父の親友であり、よき理解者であったラヒム・ハーン。途切れがちな通信状態の良くない遥か彼方でラヒム・ハーンはアミールにこう言う「もう一度、やりなおす道がある」と。

カブール(アフガニスタンの首都)で何不自由なく暮らしていたアミール。同じ敷地に住む召使の息子ハッサンとは大の仲良しでいつも一緒に遊んでいた。が、ふとした出来事に巻き込まれた時にアミールはハッサンを助けなかったばかりか、その自責の念からハッサンの存在そのものを疎ましく感じるようになる。そして、こともあろうかハッサンの一家を屋敷から追い出してしまう。
折りしも、ロシアの南下戦略からのアフガン侵攻が始まり、一気に状態は悪化し、アミールは父親とパキスタンに逃れ、その後米国に移住する。そして、父親と暮らしながら大学を卒業し、アフガンコミュニティで知り合った女性と結婚する。ラヒム・ハーンからの電話を受けたのはそんなときだった。

映画としてはどうなんだろう。ボクは原作を読んでしまっているから、細かい背景も知っている(もちろん、結末まで知ってしまっているんだけど)。アミールの心の弱さや、父ババの強さも偉大さも知っている。それにハッサンとの間に紡がれた二人の友情も知っている。それが原作のようにこの画面で伝わっていたのかが、いささか疑問が残る。
しかし、上下巻の長尺全てを映像化するのだけが映画ではない。ある意味エッセンスでOKなわけだ。文字でしか伝えられないものもある、しかし、圧倒的な情報量の映像だからこそ訴えられるものも少なくない。
美しいカブールの雪の朝。眩しい青空に舞う鮮やかな凧。そして戦火に荒れ果てた現在のカブール。陽光がまぶしいカリフォルニアの青い空...。強い意志がみなぎる父の姿、すっかり首の肉が落ち衰えが隠せないババが将軍のもとへ息子のために求婚に行く姿。そして、何よりも幼いアミールとハッサンの表情、そしてソーラブの頑なな表情。
フィルムでしか伝わらないものがあるからこそ、ボクはラストに落涙してしまったのだろう。

しかし、我が身を振り返る。じっと胸に手を当てて考えてみる。
もちろん数々の過ち、そのあまりの多さに反省と後悔の日々だ。そしてその中には忘れ去ってしまったものも少なくは無い。それに、もしチャンスが与えられても、ボクはアミールのように飛び込んで行けるのか。いや、この映画を観たばかりだと言うのに、ボクは我が身可愛さに、とても飛び込んで行けそうに無い。こうして、自己嫌悪に陥り、そうであるがために、アミールの最後の一言にボクは涙してしてしまうのだろう。

かなりオススメ。スターは誰も出ていないけど...。
出来れば原作をお読みになってからがいいですが、きっと読まずにご覧になっても、感動が薄れることもないと思います。実はお邪魔した香港でも上映中で、思わずもう一度観ようかと思ったくらいでした(観なかったけど...)。
そうそう、原作のタイトルは小説も映画も「カイト・ランナー」。今ではそれでも意味はよくわかる。でも、この映画の邦題が決まってから、書籍もタイトルを映画に合わせて変更されている。で、この「君のためなら千回でも」って、ほんとうにいいタイトルです。上手い!

おしまい。