ジェシー・ジェームズの暗殺

期待を裏切るだけの意味があったのか。



  

哀しい話しだ。

ヒーローはいつでもヒーローであるのに対して“ヒーローを打ち倒した男”は必ずしもヒーローではない。
織田信長を謀反という形で倒した石田光成は、武将としての名声を後世に残したわけではなく、僕たちには“裏切り者”として深く印象付けられている。まるで、ウルトラマンがいつまでたってもボクの心の中ではヒーローであるのに、そのウルトラマンに勝ったゼットンは多くの人の心に残っていないのと同じことだ(あまりいい例ではないけど)。

超えたいけど超えられない。それも尋常な手段であれば彼の上に行くのはまず無理。それならば、どういう手段で彼を超えるのか、彼を打ち倒すのかが問題だ。それがどういう結果を生み出すのかなどはもちろん考慮に入っていない。
う〜む、鉄砲や武器というものは、それを所持している本人の能力や意志の強さなどには全く関係なく、誰がどんな時に使っても等しく威力を発揮するのは、考えてみたら実に恐ろしいことだ!

恐らく、印刷技術も発達していなくて、紙そのものも貴重品だった時代に、生きながらにして評伝が本や絵本になり、少年ばかりか大人までも夢中にさせた男。それが、ジェシー・ジェイムズ。生きながら伝説になった男なんだろう(きっと)。
彼がどういう伝説の男なのかの共通認識を持っていないので、この映画のスタートラインは著しく低いところから始まるのが残念だ。
しかし、冒頭に語られる列車強盗の手管や、仲間をバンバン殺してしまうところなどを見ると、伝説の男と呼ぶのにはちびっと無理があるかもしれない(列車強盗があんなに簡単に出来るのなら、列車の旅なんてとても怖くて出来ないね)。
で、このお話しをヒーローモノにせず、ヒーローを正面から描かずに、そのヒーローを殺すことによってのみ、自分の存在意義(?)を世に問うことしか出来なかった哀しい男のストーリーとしたところにこのお話の意義があるのかもしれない...。

しかし、結局、誰が何のためにハリウッドの映画をスクリーンで観るのかという根源的な理由を考えてみたときに、それは哀しい男の哀しい理由を観に来たのではないというのは確か。しかも、ヒーローにブラッド・ピットという客が呼べるスターを配してこのお話しなのは、どんなものかなぁ。
映画が終わった直後は、レイトショウだったことまあって、眠さと後悔で一杯だった。でも、今になって思い返してみると、実は歴史の裏側にはこんな表面には決して出てこない数多くの“ヒーローを倒してしまった男”がいるんだろうなと。そんな男に敢えてスポットライトを当てるこの作品はそれなりに存在意義があったのかもしれないし、その意欲に拍手を送るべきだと思うようにまりました。
いずれにせよ、ストレートにブラピのヒーローモノにしなかったせいで、(少なくとも日本では)興行的にはもう一つだったみたいです。上映時間もちびっと長かったしね。

おしまい。