「侍」

新潮文庫 遠藤周作 660円


  

久し振りに本らしい本を読んだ。読み応えのある小説だった。

サムライとは何とツライ人種なのか。
いやサムライだけではない、ヒトは不条理の中で生きていかなければならないのか。

江戸初期。東北のある有力な藩の下級武士・召出衆である長谷倉六衛門(はせくらろくえもん)。彼は、藩主からの御書状をローマ法王へ届けるために、船に乗り太平洋を渡り、メキシコを経て大西洋を渡り、スペインからローマまで四人の藩士とともに出発する。
「どうして自分が」と思いながらも、上司からの命令である。与えられた「お役目」を果たすために。このお役目を無事成し遂げるという手柄を立てれば、褒賞として祖先から伝来の土地である黒川に戻れるかもしれない。そんな思いを胸に東北の寒村から出立する。

武士とは言っても、偉そうに刀を差し、毎日白いご飯を食べているのではない。六衛門程度の身分では、戦(いくさ)となれば駆けつけるが、戦がなければ、百姓と共に畑を耕し、山で炭を焼く毎日。自分の村から収める年貢の算段をし、冬の寒さに耐える工夫をし、百姓たちを飢えさせぬように気を配らなければならない。そんな暮らしに、いつしか六衛門はあまり喋らず、自分の気配を表に出さない、忍耐強い人間にしていた。

現代でこそ、海外旅行へ行くのは珍しいことでもなんでもない。お金と時間があり、飛行機に乗れば数時間から10数時間でどこへでも行くことが出来る。しかし、およそ400年前であればどうか。自分の殿の城下の賑わいにさえ目を丸くしている田舎者が、いきなり「ノベスパニヤという国へ参るのだ」と言われた時の驚愕は、我々の想像を遥かに超える。事実、六衛門はその意味を理解出来なかった。外国という概念すら無かったのに違いない。その外国へ、訳のわからない船に乗り、お役目を果たしてこいという。それは「死んで来い」と宣言されたのに等しい。
今であれば「嫌です」と言って、辞表を出せば断ることも出来る。しかし、六衛門には選択肢など無い。殿の、上司の命令は絶対であり、覆ることはない。断ることは、自分の死を意味するだけではなく、それこそ一族郎党、それどころか自分の知行地に住む百姓にまでその類が及ぶかもしれない。

この物語りは、六衛門が如何にこの苦難の旅を乗り越えローマへたどり着き、日本へ戻ってきたのか、その冒険を描いたものではない。
人間というのは何とも不思議な生物で、自分が何かをするときに、その理由、その意味を常に求める。目的も無く、何かをすることは無い。目的があり、理由があるから頑張れるのだ。六衛門も上司に因果を含められてこの旅に出発した。旅に出るのは自分の意志では無いけれど、この旅に出る意味は自分の中でわかっていた。
小説の大枚を割かれている旅の道中。その道中、六衛門はその意味を果たすために、お役目を果たすために如何に努力したのか、忍耐したのか、甘受したのかが書かれている。何もかも投げ出してしまいたい、そう思ったことも一度や二度ではなかったはずだ、だが、その度に自分の肩にかかる血縁、地縁の重さを思い出す。
数年にも及んだ旅を経て、六衛門は故郷に戻る。
だが、六衛門は知っていた。この旅に、お役目にもはや意味など存在しないということを。自分は一体何のためにこの数年間の旅をしたのか。誰も歓迎してくれない、誉めてくれない、ねぎらいさえない。それどころか、話しも聞いてくれない。

「お役目など、もうないのだ」

六衛門はここでも忍耐と甘受をするしかない。これが運命なのだと。
そして、これは六衛門だけのことではないのかもしれない。全ての日本人に当てはまるのかもしれない。さらに、野心に富むスペイン人の宣教師ベラスコの目と筆を借りて、「日本人とはそんなものなのだ」と遠藤周作はそう言っているのではないか。

自分の運命を真摯に受け止め狭い自分の世界で生きてきた侍が、自らの意思に反して、世界という大海に船出していく。そして世界の大きさに触れ、驚く。そして、太平洋、大西洋の二つの大海を渡り、北米大陸・欧州大陸を踏破した。しかし、六衛門が見て経験した広い世界は、六衛門の胸の内で、東北の寒村でそのまま朽ちていくだけだ。「世界など、見なければよかった」そんな侍の胸の中のつぶやきが聞こえたような気がした。

キリスト教色は薄い。六衛門が傾倒するわけでもない(最後には理解したのかもしれないけれど)。“痩せこけたみすぼらしい男”については、極めて抑制された筆致で描かれている。むしろ、教会とその組織については否定的に書かれている部分に目が行くことの方が多いほどだ。

ある意味「日本人論」とも受け取れるこの小説、一度手にとられても損の無い一冊だと思います。
この作品が発表されたのが1980年。日本がまだまだ元気だった頃で、まだモーレツこそ美徳だと信じられていたときだ。六衛門の姿が高度成長を支えたサラリーマンたちとダブって見えて仕方ない。今だったら、同じ題材を扱ったとしても、もっと違った切り口で書かれたと思う。ねっそうでしょ、天国の狐狸庵さん。

香港在住の山あるきの師匠・光頭老さんが「(この本を)読んだ」とおっしゃられているのを耳にし、読んでみました。遠藤周作の本を読むのは、何で何時以来なのか思い出せないほどです。伊丹にあるダイヤモンドシティに入っている未来屋さんで購入しました。

おしまい。