「ニライカナイの空で」

講談社文庫 上野哲也 619円


  

爽やかな風が吹き抜ける「青春小説」。
いや、青春と呼ぶにはまだ少し早い、少年の物語り。

「ニライカナイ」とは、琉球の方言で「桃源郷」を意味するそうだ。
実は、ツバキの品種にもニライカナイという名があるので知っていた。中輪筒咲き締まった筒しべで明るい紅色、もちろん一重。拙宅には地植えで一つ、鉢で一つある。なかなか格調高い花を咲かせる。残念ながら遅咲きで、春もうららになってようやくほころぶ。
それで、仕事で出かけた先の近鉄奈良駅そばにある啓林堂書店さんで「ニライカナイの空で」と言うタイトルに目が行き、買ってしまった。

主人公のしんちゃんは訳があって、父親の友人宅へ預けられる。父親から「必ず迎えに行くから」の言葉と一緒に切符を渡される。小学六年のしんちゃんは東京で生まれ育ったぼっちゃんなのに、福岡の炭鉱町へ一人でやってくる。小倉駅のホームにその父親の友人が迎えに来ていることになっている。
「おまえが新一か」
「俺の顔になにかついちょうか。なんべんも同じことを言わせるな。おまえが立花新一か」
しんちゃんを待っていたのは、父の戦友・野上源一郎。名前だけでなく、気性も容貌も仕草も、何もかもがいかめしく筋金入りの炭鉱労働者。しんちゃんは父の友人を見ただけで震え上がってしまった。
それでも、のっぴきならない状態で小倉へ到着したしんちゃんは彼についていくしかない。
小倉から汽車を二度も乗り換えてしんちゃんと野上源一郎は田川に着く。そして、しんちゃんの新しい生活がはじまる。

しんちゃんにどんな暗い生活が待っているのか。読み進めるこちらが心配になってしまう。そして、そんな苦境を撥ね退けるような、しんちゃんの活躍が展開されるのかと読み進めると、ちびっと肩透かしを喰らう。
このお話し、主人公はしんちゃんのようで、しんちゃんではない。彼はある意味「語り部」なのだ。
恐ろしい野上源一郎に連れて行かれた先で、しんちゃんはいきなり救世主に出会う。それは野上源一郎の末の息子・竹ちゃん。たちまち、二人は仲良くなる。そして、多くの読者を裏切りながら、物語りは大きく急旋回して語られ始める。

少年時代の夢をとうの昔に忘れてしまった大人には、忘れた夢を思い出させてくれる。そして、夢を持たない少年たちには、夢を持ちそれを追いかける楽しさ、大切さを教えてくれる。
そんな「素直な」お話しが展開される。
この舞台は、戦後十数年を経て、東京オリンピックが開催される前年。この時代設定が巧みに生かされているのも確かだけれど、現代に時間を置き換えても充分成立する。現代にこれほど純朴な少年たちが存在しているのかは、いささか不安だけど...。

この小説をボクのようなおっちゃんが、懐かしさを抱きながら読むよりも、本当は小学校高学年から中学二年生ぐらいまでの少年にこそ読んでもらいたいと思った。
自分の夢に向かって努力し、進むこと。自分の目標を持つこと。このことがいかに大切なことなのか、それを少年たちにわかってもらいたいと思う。
何も勉強だけが目標ではないだろう。夢とは個人個人によって違う。そこにいる少年の数だけ夢の種類は存在するものだ。その夢の種類を知ることによって、他人との違いや人間の多様性をも知るきっかけになるはずだ。
今の世の中、あまりにも夢や価値観が画一化されていて、人とは違う夢を持つ人がヘンな目で見られている。これは凄く悲しいことだと思う。

すっかり九州言葉が板に着き始めたある日、父親がしんちゃんを迎えに来る。
こうしてしんちゃんは、何の心の準備もないまま、今度は一人上りの夜汽車で東京へ向かうことになった。
出会ったときのように野上源一郎に連れられ小倉駅のホームに佇むしんちゃん...。
心細い思いでこのホームに降り立ったしんちゃんからは想像も出来ないほどしんちゃんは成長しているのだ。
しんちゃんのようにこの本を読んだ少年たちも成長してくれればいいのだけど...。
この本を読む大人も、年甲斐も無く少年時代に戻れること請け合いです!

おしまい。