胡同の理髪師

淡々と静かに時代は終る



  

今年の8月。中国の北京で五輪(オリンピック)が開かれる。
それにあわせて、北京の街は大きな変貌を遂げている(らしい)。
もっとも五輪は、そのひとつのきっかけにすぎず、近代化へまっしぐらの中国(特に都市部)では、五輪に関係なくもの凄い勢いで再開発は進んでいるのでしょう、きっと。
だから、北京の街はどんどん姿を変えていて、古い街並みは記憶の中で懐かしむものとなっている。でも、懐かしむだけで本当にいいのだろうか? しっかり記録に残しておこうょ...。なんだか、そんなつぶやき声が耳元で囁かれたような気がしました。

もう随分前のこと、ボクは北京の街角で迷っていた。
道端に椅子と姿見、そして薄汚れた白衣着てたたずんでいるおっさんを前にしていた。そう、この作品中でも、大きな塀の前で店開きをしている露天の散髪屋のおっさんが映しだされていた。全くのあの姿だ。
結局、ボクはびびってあの椅子に座ることは出来なかった。それでも、同行していた豪気なおじさん、この散髪屋さんにチャレンジされたらしいと耳にしたけど...。

この映画、冒頭の数シーンが実に興味深かった。
この部屋にある置時計。毎日必ず15分進む。おじいさんはこの時計をバスタオルにくるみ、自転車の荷台に積み込み、時計屋に持ち込む。修理を依頼するが、体よく断られ、挙句に電波時計への買い替えをすすめられてしまう。
このシーンこそが、この映画のテーマだったのかもしれない。価値観が変わっている。何でも効率化が求められ、古いものや人情には、価値が見出されていない。古いものを大切にするという風潮はまるで無い。それは何も時計だけではなく、その古さや経験は尊重されない。“現代”という若い人たちが持つ“新しい価値観”のなかに収まらないものやヒトや考えた方は、それだけでもう“価値が無い”という烙印を押されてしまうのだ。

90歳を過ぎても現役の理髪師(もっとも散髪屋さんという表現の方が似合っているな)チンお爺さんが主人公。
彼の日頃を淡々と描写することで、今の中国、なかでも今の北京が抱える様々な問題点が浮き彫りにされてくるから、不思議だ。

移り変わるのは、北京の街の風景だけではなく、人々はそれなりに齢を重ね老人となっていく、人情も、価値観も大いに変わる。チンさんの家族もそうだし、彼のご贔屓衆、そして日頃の遊び仲間...。それぞれが、それぞれに問題を抱えながらこの街で生きている。何だか、近代化の波に乗るということは、止むおえないこととはわかっているけど、単に窮屈になるだけのようにも見える。淡々と映し出されるチンお爺さんの日常。しかし、それぞれが生きてきた時代。それも静かに終ろうとしているんだなぁ...。
大きな感動があるわけではない。でも、この生活の中には、もっときちんと残しておかなければならないものがあるんだな、っと教えてくれるお話しです。もし、北京まで五輪を観戦に行かれるのなら、近代化された街並みよりも、まだ北京のどこかに残っている胡同(フートン)を見に行って欲しいですね。
もっとも、ボクがはじめて北京へお邪魔した頃には、街の中を平気でロバに曳かれた荷車が闊歩していたのですが...。

おしまい。