モンゴリアン・ピンポン

勉強が少しばかり出来るより、馬を乗りこなせる方がずっと素晴らしい!



  

モンゴルの広大な草原には、やはり馬が似合う。
でも、そんな大草原にスクーターが混じるアンバランスさを納得してしまう不思議な面白さを持った作品だった。

ボクは、熱帯雨林のジャングルや、北極海の氷に閉ざされた海を見て、未開の人たちの生活に思いを馳せ、何年も何百年も変わらなかったであろうその地で暮らす人々の生活を想像してしまう。でも、よく考えてみたらそんなはずはないわけで、何処に暮らしていても、TVは見たいものだし、ラジオだって欠かせない情報源なわけだ。毎日世話をしなければならない馬ではなく、スイッチを入れてアクセルを廻せば走り出すスクーターやクルマが便利に決まっている(もっとも、ガソリンを入れなければならないという“欠点”はあるけどね...)。
もちろん、見渡す限りの大草原が広がるモンゴルに住む家族だって、近代化というか現代化の波がもろに押し寄せて来るわけだ。もっとも、電気は自家発電だし、せっかく買ったTVだって、頼りないアンテナでは受信できなくて返品だってしてしまう...。
そんな現代の内蒙古自治区に暮らす一家と、その周囲の家族たちのお話し(“周囲”と云っても、きっと肉眼では判別できそうにない距離があるんだろけどね)。

このところ、工業製品にしても、農産物にしても、「中国産」というだけで、「危ない」とか「危険」というレッテルを貼って見てしまうけど、ところがどっこい、やっぱり中国は果てしなく広い。もう、イヤになってしまうほど広いんだな。改めてそう認識してしまう。
遥か彼方に雪を抱いた山脈を控え、手前には果てるともなく広がる草原。モンゴルの人たちはこの草原で遊牧をして暮らしている。学校に上がるまでの子どもたちは両親とともにゲルで暮らし、家族の一員として当たり前のように出来る範囲で仕事を手伝い、そして大らかに遊ぶ。
そんな一家の住まいに現れるのは、“近所”に住む友だちであったり、怪しげな行商の商人であったり、それは様々。怪しいけれど、いつも外部からの新鮮な情報をもたらしてくれる商人の存在は欠かせない。このお兄ちゃん(何故かちびっとオダギリジョーに似ている気がする)は、憎めないながらもしたたかな一面を持ち合わせている。

何が起こるわけでもない。
しかし、一応、少年が川で遊んでいるときに上流から流れて来た、不思議な物体を拾い上げることからお話しは動き始める。
そうか〜。自然界で暮らしていると、理由もない直線や、完全な球体などは基本的に存在しないのか! そうそう、何に使うのかわからないものをいきなり見せられると、それは理解を超越したものになる。

文明とか近代化とか、それ自体には何も意味があるわけではなく、それらによって失ってしまうものの方が大きい。そんなことを思うのは現代人のエゴであり、潮の満ち引きのように近代化が押し寄せたり引いていったりする辺境に地に住む人たちにとって、近代化とは避けては通れない必須の道なんだろうなぁ...。
そのアンバランスさをコメディタッチで描いているとは云え、なんとも上手な対比で見せてくる。

馬は毎日世話をしないといけないし、ずっと乗っていたら疲れて動けなくなってしまう。でも、上手く休みながら乗れば、いつまでも一緒にいて、自分を遠くに運んで行ってくれるものだ。スクーターはなるほど便利だし、乗りこなすのに特別な技術は必要ない。いつでもフルスロットルで草原を疾走出来るのだ。但し、燃料タンクにガソリンが入っている場合のみ。ここでの暮らしに本当に必要なものはどちらなのか。
答えは明らかなのに、その判断がつかないところが、現代人のアホなところなんでしょうね。

そして街の学校へ入学した初日。教室で彼が目にしたのは、何球あるのか数えられないほどのピン球が乱舞して、その完全な球体に誰一人として注意を払っていないという事実。望むとも望まざるともかかわらず、彼にとっての“近代化”はスタートしたばかりだ。

おしまい