白いカラス

最初や最高ではなく“最後の恋”とは


  

初日の初回へ行くことは珍しいけれど、いろいろ予定もあり、出掛ける。
近頃、アフター5に映画館へ行くことが少なくなり、その代わりに土日などに何本かまとめて観ることが多くなった。こうなると、レイトのみで上映される映画を観るのはなかなか厳しくなる。ぴあを手許に置いて、どんなふうにハシゴしようか予定を組む作業はなかなか楽しいけどね。

で、今回拝見してきたのは「白いカラス」。
アンソニー・ホプキンスとニコール・キッドマンの主演。このお二人とも贔屓の俳優さんだけに、見逃せない。

テーマは、とても重い。
黒人なのに白い肌で生まれたコールマン・シルク(アンソニー・ホプキンス)、彼は白人、そしてユダヤ人として生きていくことを選択する。そんな彼が名門大学の学部長として君臨するものの、些細な人種差別発言を理由に失職。失意のうちに隠遁生活を送るのだが...。
そしてふとしたきっかけでフォーニア・ファーリー(ニコール・キッドマン)と出会い、たちまち恋に落ちる。この恋は「最初の恋、ではなく、最高の恋、でもなく“最後の恋”」なのだそうだ。
フォーニアは、義父から受けた性的悪戯がトラウマとなっているだけではなく、ベトナム帰還兵の前夫からの暴力的虐待、そして火事で幼い息子二人を失う。そんな経歴を持った寡婦。

ボクはフォーニアがわからない。心に深い深い傷を負っているのはわかる。でも、どうしてコールマンなのか。その理由がわからない。だから、このお話しに素直に乗れなかった、まるで、彼の弁護士のように、フォーニアの心にはどこか“計算”があったのではないかと。
コールマンがフォーニアに傾注していくのはわかる。レクター博士もまだまだ若い。どんどん新しい恋はすべきだ。

コールマンは永年心の奥深くに隠していた秘密をフォーニアに打ち明ける。そして、ようやく得る心の平静。
でも、それは本当なのか? あまりにも長きにわたってつき続けた“ウソ”は、やがて自分の心の中では“真実”になっていたのではないか?
少なくともフォーニアに告白することで、コールマンの顔が安らいだようには見えなかったけどなぁ。これはとっても重要なポイントだと思う。
うがった見方をすれば、コールマンは心の平静を得るために告白したのではなく、単にフォーニアの歓心を得るために告白したのではないか、そんな気さえするのだけど...。これって考えすぎかなぁ。

もう一つ。お話しが二段構えになっているのが、全く生きていない。このお話し、実は隠遁しているコールマンの近くに住むノンフィクションライター・ネイサンが語る、という手法に立っている。それなのに、その設定が全くこの映画には生きていない。生きていないどころか、却ってお話しをややこしくしているだけのように思えて仕方なかった。
おそらく原作において、ネイサンはもう少し重要でしかも絶妙な狂言回しを演じていたはずだ。映画では何の意味もなしていないけどね。

時折、ハッとしてしまうほど映像が美しい。
特に強く印象に残ったのは、ネイサンがフォーニアの前夫レスター(エド・ハリス)に会うシーン。真っ白に氷結した湖の上、一面に純白の世界。その氷に穴を開け釣り糸を垂れている。
このシーンこそ、誰もが抱えているであろう、人の深層心理を見事に描いているように思えた。

このエド・ハリスもなかなか存在感がある。
正直云ってアンソニー・ホプキンスとニコール・キッドマンのお二人は、ちょっとな。これは俳優が悪いのではなく、この二人は唸るほどの演技が要求されていなかったような気がする。

まだまだ上映しているはずです。興味をお持ちならどうぞ。

おしまい。