「しあわせな孤独」

しあわせって難しい


  

4月に入ってすっかり春になった。
今年は妙な季節のめぐりで、3月に入ってから雪が積もったかと思うと、例年になく桜の開花が早かったり...。
開花が早かった割には、花が長持ちしているようで一安心。心配して心を痛めていたけれど、どうやら11日の桜花賞まで仁川の桜はもってくれそう。ほっとしました。やっぱり、三歳牝馬・乙女たちの祭典には、桜色の絵巻物が似合う。仁川の三コーナーの桜並木は満開のままレースが迎えられそうです。

今回ははるばる京都まで出かけました。ここみなみ会館へ来るのはおそらく二度目。前回は確か、レオンライとマギーチャンの「ラブソング」のリバイバルを観に来たはず(いい映画だった)。
梅田でJRに乗り換え、京都まで出てから近鉄で一駅、東寺まで。ここから西へ数百メートル。スーパーの隣、パチンコ屋さんの二階にあるこじんまりとしたクラシカルなスクリーン。傾斜が付いた床と高い天井は、なぜか戎橋劇場を思い出す(懐かしい!)

デンマークの映画「しあわせな孤独」。
この映画、いい映画なのは間違いない。でも、どう説明しようか、この気持ち。観ているこちらの気持ちは揺れ動く。表現が、説明が、とても難しい。
この作品のテーマは何か。難しいところだ。決してハッピーエンドではない。だけど、不幸せになったわけでもないと思う。
人は幸せになるために努力する。だけれど、幸せの絶頂にいるときには、それに気が付かない。そして、その幸せの絶頂を滑り落ちようとするときになって、自分が幸せだったことに気付き、それにすがり付こうとする。でも、もう遅い。後はズルズルと落ちていくだけだ。
つまり、幸せの頂点に立とうと努力しているその時こそ、最も幸せだということか。

若いカップルがレストランで食事をしている。食事を終え、男が指輪を取り出しプロポーズする。この二人にとってはこの時が幸せの絶頂だったのかもしれない。が、この幸せは一転して不幸に叩き落とされる。セシリの目の前で、クルマから降りたヨアヒムは猛スピードで走りこんできた乗用車にはねられてしまう。意識は取り戻したが、全身不随で治る見込みはない。

加害者のクルマを運転していたのはマリー。同乗していた娘との口論で、運転が疎かになっていた。彼女の旦那ニルスはヨアヒムが担ぎこまれた病院の医師。マリーは刑事責任を問われることはなかったが、不幸のどん底に突き落とされたセシリには同情する。そしてニルスにセシリの力になってあげてとほしいと頼む。

もう少しで地理学の博士課程を修了するはずだったヨアヒム。自分の運命を嘆くしかない。病室のベッドに横たわるだけしかで出来ない自分に、これまでどおりの愛情を示そうとするセシリを拒絶する。
頑ななヨアヒムの態度に驚き、悲しむセシリは、ニルスにすがるように相談する。精神的に不安定になっているセシリを慰めるニルス。駄目だとわかっていながら、ニルスとセシリは求め合い、何度かの逢瀬を重ねてしまう。
ニルスは、マリーと三人の子供たちに囲まれた生活が嫌だったわけではない。自分が気付いていないだけで、その家庭生活は充分幸せだったのだ。それなのに、自分でその幸せをぶち壊してしまうとは...。

これって、メロドラマなの?

ニルスとセシリの関係は、どう見ても微笑ましい。浮気とか不倫という言葉では表現したくない。男と女が互いに惹かれあう様子が丁寧に美しく描かれている(と思う)。危険な、背徳な匂いは感じられない。
いやいや、ボクがこの二人の関係に、憧れに近い気持ちを持って観ているからそう思うだけかかもしれない。被害者の若い恋人と加害者の旦那、しかも医師。普通は、有り得ない関係かもしれない。
結局、ニルスは自分の気持ちが本気だと気付き、家を出るのだが...。

この映画に、いわゆる幸せを掴む人はいない。だけど、後悔したり、不幸になる人もいないような気がする。不思議と心がしっとりとする、そんな映画だった。
幸せとは何なのか、人生とは何なのか? 
そんなことを考えさせる作品です。「しあわせな孤独」というタイトルも、映画を観終わってからは何とも意味深な気がしますね。
印象深い映画ですので、チャンスがあれば一度ご覧になっても損のない作品だと思います。中には、この映画で描かれるような物語りは嫌いという人もいらっしゃるかもしれませんが...。

そうそう、主人公のセシリを演じるソニア・リクター、なかなかかわいくて良い。またニルスの長女を演じる女の子(スティーネ・ビェルレガード)も印象に残る好演でしたね。

おしまい。