「10話」

人間は問題を抱え疾走している


  

三宮へ行くのは久し振り。つい1年前まで毎週通っていたのになぁ。
勤務先の神戸の出先きの近くに好日山荘は移転してきているし、いつの間にか復興館がなくなってマルイが開業している。昼食はセンター街の地下にある中華料理屋で食べた。ここに来るのも久し振りだなぁ。
行ったは久々に三宮アサヒシネマ。この日はダブルヘッダー。まず、イラン映画の「10話」。

アッバス・キアロスタミの映画。「桜桃の味」のようであり、あの映画よりさらに実験的な手法を用いられている作品だ。
ある意味では「退屈極まりない」。眠気との闘いであったことも事実だ。でも、考えてみたらこの映画がフィクションであるのなら(きっとそうだけど)、この映画に出てくる役者さんは皆凄い。人間の持つストーリーテラーとしての底力に驚くしかない。これは芝居なのか、それとも自然に出てきた言葉の積み重ねなのか? 映画を観ているというよりも、ラジオドラマを「観ている」ような気がする。ドキュメンタリーを観ているような気もする。

全篇のほぼ全てが、乗用車の運転席と助手席に向けて固定されたカメラで写し出されている。カメラは容易には切り替わらない。いや、全く切り替わらない。
一人が写され、もう一人は声だけ。一台の車の中で繰り広げられる会話がひたすら拾われる。このクルマを運転しているのは、母親でもある30代の女性。そして、この車に乗り込んだ人たちとの「会話集」がこの映画。
どうでもいいような話しが繰り広げられるようだけど、そこは上手く作ってあり、様々な事情が徐々に明らかになっていく。まぁ、明らかにすべき「謎」があるわけでもなく、観終わって何かすっきりしたものがあるわけでもない。

ボクが感じるのは、この国がイランであれ、どこの国であれ、人は常に問題を抱えながら疾走しながら生活を営み、そして相手によって様々な形でその顔を変えながら生きていること。そんなことを改めて思い出させてくれる。
そして、この映画の偉いところは、誰に対しても言いたいだけ言わせて、それを否定したり、肯定したりしない。何の答えも導かないし、ましてやどれ(誰)が正しいのかなんて押し付けもしない。それは、観ているボクらに「考えなさい」と言っている。

この映画が「凄い」のか「素晴らしい」のか、それはボクにはよくわからなかった。
ひょっとしたら、それは誰にもわからないのかもしれない。
でも、それはそれでいいのかもしれない。この映画は大いなる実験なんだから!

観るべき作品なのか、どうなのかは正直なところ良くわからない。チャンスがあればご覧になっても損はない作品であることは確かだと思います。梅田ではとうに上映が終わっていたのですが、三宮では随分遅くに上映されました。お陰で観ることが出来ました。一日2回の上映、土曜にもかかわらず、わずか片手で足りるほどのお客さんとは、ちょっと淋しいですね。
次回は同じく三宮のアサヒシネマで観た「約束の9000マイル」をご紹介します。

おしまい。