「世界の終わりという名の雑貨店」 |
上映時間が短いのが唯一の救い |
この映画のたった一つの良いところは「上映時間が短い」ところだ。ただそれだけだ。
いったい何が言いたくて、観る人に何が伝えたかったのか、それがまったくわからない。原作の小説を読んだときもしっくり来なかったけど、映画はもっとひどい。 ある女子高(原作は京都が舞台だったけど、映画は明らかに東京)に通う少女・胡摩(高橋マリ子)は疎外感を感じている。教室でも家庭でも。そんな彼女がくつろげる場所は二つしかない。それはお気に入りのブティックで買い物をするときと、偶然訪れた「世界の終わり」という一風変わった名前がついている雑貨屋さんにいるときだ。この雑貨屋はライターをしていた若い男が大家に頼まれて開いたお店。店で流れているのはラジオ。何故かいつも天気予報。そして、胡摩とこの男は何故か惹かれあい、一緒に逃避行へ出かける。 これは、ボクが原作を読んでいるからわかっただけで、もし、原作を読んでいない人がこの映画を観たらそれこそチンプンカンプンだったのでは?
主役が悪い。胡摩役の高橋マリ子はブティックの服を着ているときはまだ見られるけど、制服姿はぜんぜんあかん。若さがない。高校生には見えない。どうして、雑貨屋の若い男が彼女に惹かれるのかさっぱりわからない。
映画のコピーには「良く似た疎外感を持った二人が...」なんて書いてあるけど、この二人が良く似た疎外感を世間に対して感じているなんて、これっぽちもボクには伝わってこなかった。それに、胡摩はどうしてクルマの男と一緒に帰ってしまい逃避行を中止したのか。ぜんぜんわからない。
結局、この映画、観ている側には何も伝えられず、単に作り手側の自己満足に終わってしまっているんではないでしょうか。いろいろ映画を観ているとこんな作品にあたることもあるのですね。 おしまい。 |